ー 横堤の始まり ー

横堤八幡宮は延文5年(1360)に男山八幡宮の分霊をいただいてます。創建の年代は村の成り立ちと深い結びつきがありますので、横堤村が姿を現したのは14世紀初め、鎌倉時代末期から室町(南北朝)時代初期の頃と考えられ、現在までに600年をこえる長い歴史があります。

この頃、全国各地に多くの荘園が営まれ、横堤村は観心寺領の小高瀬荘に属していました。観心寺といえば南朝をささえた楠木正成一族と深いつながりをもっていたので、建武の新政につづく南北朝時代の初めには南朝の支配下にあったのが、正成の三男正儀(まさのり)が足利幕府に降伏したため、以後足利方の畠山氏の支配地となってしまいました。さきの延文というのは北朝が使用した年号です。当時の横堤の人々のくらしをしる手掛かりはほとんどありません。しかし、低湿地帯の米づくりをつづける中でひんぱんに起こる水害と、村々におそいかかる戦乱の嵐から、生命とくらしを守るために村人たちの強い団結が必要であったことが想像されるのです。

横堤の名前が史料として登場するのは、横堤惣道場と呼ばれ、16世紀初めに成立していた円立寺(円竜寺)の10世宗主証如の日記に「(天文9年=1540)七月二十八日、風呂代五十疋(ぴき)来、横堤ヨリ也」とあり、天文13年、18年(1549=ザビエル来日の年)と三度も記録されています。これは横堤惣道場に集まる人びとからの献金を表しています。

 

ー 大和川の付替えと井路網(江戸時代)ー

「大和川の付替え」-当時の茨田郡・東成郡は大和川とその分流、寝屋川・古川といった多くの河川が集中し、低い土地でもあって水害常襲地帯といってもよいところですが、大和川流域にあたる中河内地方でも同じことでした。このため、早くから大和川に新しい河道をつくり、柏原から西は直進して堺付近で水を落とする案が唱えられていましたが、新河道となる村々の反対にあってなかなか実現しませんでした。しかし、今米村の中甚兵衛の必死の努力が大坂代官万年長十郎を動かし、ついに元禄16年(1703)幕府は付替令を発し、わずか8か月というスピード工事により、いまの柏原から西へ直進する河道が完成しました。新河道の村々に不満は残りましたが、旧河道の多くの分流は水量が安定して井路川と変わらぬようになり、川の両岸などに新田が開かれました。

 中でもこれまで洪水時の遊水地であった新開池(→鴻池新田)のように町人の資本で開かれたものや同じく深野池(→深野新田)のように東本願寺の開発したものも見られます。また中河内一帯はもめんの栽培がさかんになって、日本一の「河内もめん」の名を得るようになるのです。

「井路(井路川)」-村のくらしをたてるのにいちばん大切なものは農業用水の安定確保です。茨田郡の村々は淀川・寝屋川に20数本の樋を設けて水を取り入れ、それぞれに組を作り、共通の利水対策をたてることにしました。横堤村はほぼいまの守口市と鶴見区東部(=旧茨田町)を含む範囲の

「五ヶ荘組」に属していました。淀川の樋から取り入れた水は五ヶ井路とよばれる支線水路にわかれて網の目のようにひろがっていました。

いま横堤中学校正門前の遊歩道がかつての五ヶ井路で尺女(しゃくじょ)の川とよばれていました。五ヶ井路は昭和12~17年に改修されて寝屋川に直接落ち込むように三荘用排水として生まれ変わりました。

 横堤の古い集落のそばに門真井路と古川左岸からの八ヶ井路が並行して流れ、支線の井路が集落をとり囲んでいて環境集落となっています。

 井路は農業用水の取り入れや排水路としての大きな役割のほか、三枚板舟サンマイとも略称)といわれる田舟がゆきかう大切な交通路としての役割も果たしていました。水郷地帯といってもよいこのあたりは、井路をはじめ多くの池にさまざまな魚介類がすみつき、ナマズ・ウナギ・コイ・フナなどの魚類のほか、エビ・カニ類、さらにはタニシ・シジミといった貝類などが多くとれました。

 横堤村の西口にあるおうぎ橋のそばに毎日せり市が立ち、古川筋や周辺の川筋の川魚がすべて集まり、近郷の村々や大坂市中へも売られていき、「横のざこ市」として有名でした。タニシはそのころひろまったアヒルの飼育のえさとして貴重でした。

 こうした井路川のある景観は昭和20年代まで残っており、今のお年寄りからもウナギ捕りをしたり、麦の実とりをしたお話しを聞くことができます。